2003/05/01UP


災害現場の苦い味

 パトカー、消防車など救急車両のサイレンには鋭く反応する。 火災、大事故などがあればとにかく現場への一番乗りを目指す。入社したてのころ、先輩記者からたたき込まれたのがこの2つの鉄則だった。その最大の理由が写真撮影。早く行けば行くほど生々しい映像を収めることが可能になる。 関係者からの話は事後でも取材は可能だが、現場写真だけは再現することはできない。だから現場へ向かう。しかも急いで。この点は、テレビ、新聞を通じたほとんどのマスコミに共通しているはずだ。この現場詣で、かつて苦い経験がある。今も鈍痛を伴って思い出される。◇事件記者をやっていたころ。付近の川で子どもが流され、ヘリコプターが救助に向かったとの一報が入った。反射的にカメラをつかみ、車を飛ばして現場へ向かう。ヘリコプターの救助写真を撮るためだ。四苦八苦して現場に到着した時は、ちょうど被害者が収容され、病院に飛び去るところだった。「遅かった」。正直に言おう。その瞬間はそう思った。撮影が間に合わなかったことに、落胆すらしていたかもしれない。そして思った。「子どもが素早く救助されたことを何で最初に喜べないのだろうか」。あまりに非人間的な思考に自ら唖然とした。仕事とはいえ、人として無くしてはならないものを失ったような、寂寞とした感情に目を塞がれる思いがした。◇支局にいても、火災、災害などがあれば現場へ飛ぶ生活に変わりはない。でも、その道中で時に自問を繰り返す。「悲惨な状況をどこかで期待している自分がいないか」と。 もちろん、マスコミの一員として迫力ある映像は絶対に逃せない。といって、他人の不幸を望むような真似だけは二度としたくはない。時に仕事に際しては感情的な冷徹さが求められるのかもしれない。それならそれでいい。自分はいつまでも凡庸な人間、記者でありたいと願っている。