2018/12/1UP
養蚕文化
本紙で連載させていただいているシリーズ「阿武隈川物語 流域の歴史と文化」の取材で、養蚕の世界を垣間見る機会が増えました。宮城県内最大の繭の産地である隣の丸森町でも、現役は5戸しかありません。角田ではやや最近まで残っていたそうで、今は残念ながら途絶えてしまいました。明治時代に角田・丸森を東北本線を通す計画が持ち上がった際、「蒸気機関車の煙が蚕に悪い」との理由で、鉄道が白石・大河原に移ったというのが定説とされてきました。この地域にとって身近で重要だった養蚕の営みが理解できます。
養蚕と言うと、福応寺毘沙門堂に奉納されてきたムカデ絵馬が象徴的です。養蚕信仰を伝える貴重な資料として、県内で初めて国の重要有形民俗文化財に指定されました。福応寺が収蔵展示施設を建設しており、来春の田植えが終わって以降にオープンの運びになる見通しです。最近、住民有志のグループが毘沙門堂のしめ縄の掛け替えを始めるなど、ムカデ絵馬を盛り上げる機運が出てきました。もっと地元で、郷土の宝が知られてほしいと願います。寺がいわゆる隈東にあることも歴史的に意味があります。
隈東は古代の伊具郡が発展した地域で、郡衙跡と比定される遺跡が枝野にあります。その郡衙の所在地として重きをなしたのが、麻績(おうみ)郷。今の枝野、藤尾などの一帯です。地名が残る麻山はその名残とされます。多賀城の陸奥国府で出土した瓦のヘラ書に「伊具郡麻」と書かれており、麻績郷のことと推定されています。麻を栽培、つむいでいた地域だったことが想像されます。伊具郡には静戸郷という地域もあったそうで、静戸は織物の職業集団と考えられています。養蚕と機織りは奈良、平安時代と古代の貴族政治が確立するにつれ、その税制である「租庸調」の調として展開しました。大和朝廷が東北を支配していく上で、農耕とともに伝えたのが養蚕、機織り技術だったことでしょう。絹の歴史は政治と密接に関わる奥深いテーマです。
どこまで歴史がたどれるかは分かりませんが、隈東の古層の物語は、今以上に意識して掘り起こしていくべきフィールドだと感じます。せっかく道の駅も隈東にできるのだから、地域の文化を深掘りしてよいと思うのです。
角田市市民文化祭
阿武隈リバーサイドマラソン
第27回河北新報角田専売所杯
少年野球大会