2016/11/1UP
高蔵寺・阿弥陀様に思う
角田の古刹、勝楽山高蔵寺に伝わる国指定重要文化財の阿弥陀如来坐像が、京都市の美術院国宝修理館で修復されることになりました。阿弥陀如来さまは、表面の漆がはげ落ちたり、髪の毛のらほつが損傷したり、下地が経年劣化したりしていました。東日本大震災で台座の蓮弁も損傷しました。これらの総合的な修復を行うとのことです。像の本尊が約2年間、続いて台座と光背の修復に移り、足かけ4年のプロジェクトです。修復は約90年ぶりで、阿弥陀堂の外に運び出されたのは初めてとされます。搬出作業は、いったん像を台座から下ろして仰向けに横に寝かせ、左膝の方から斜めにして出した後、全体をにじるように運び出しました。阿弥陀堂の扉も外し、スペースを少しでもつくっての作業でした。美術院の担当者によると、これほどの大きさの仏像の修復は、京都でもそんなに多いことではないとのことでした。市が誇る随一の文化財が見事に修復されて、また素晴らしいお姿を再び拝めることを楽しみにしています。
高蔵寺は平安時代の819年に、徳一菩薩によって創建されたと伝えられます。徳一菩薩は、京都の比叡山で天台宗を創始した最澄と論争するなど、深い学識を持備えた高僧でした。会津の磐梯町には徳一菩薩が創建した「慧日寺跡」が残り、薬師如来坐像の復元などの取り組みが始まっています。会津では徳一菩薩と仏都会津への関心が高まっており、文化庁の日本遺産認定を目指しています。
さて、高蔵寺はその後、藤原氏三代秀衡と、その妻によっって1177年(治承元年)に、阿弥陀如来さまと阿弥陀堂が建立されたと伝えられます。奥州藤原氏の勢力範囲から見て、高蔵寺は頼朝など坂東や京都からの外部勢力に対する備えとして、阿武隈川の水運と、平行する山間の街道の両面で、角田盆地は今思う以上に重要な位置を占めていたのではないでしょうか?建造物として平安時代の阿弥陀堂が現存しているのは、東北では中尊寺金色堂、福島県いわき市の白水阿弥陀堂だけ。全国でも宇治の平等院、大原三千院など数少なく、貴重な建物です。高蔵寺の文化遺産としての高さは、一般的に市民が思っている以上ではないか?と思います。
観光地のにぎわいだけを目指すべきではないにせよ、角田の観光は年間20万人そこそこ。仙南では最も少なく、蔵王町の9分の1、隣の丸森町と比べても3分の1しかありません。交流人口は観光だけでなく、陸上競技場などのスポーツ関係もありますから、一概には言えませんが、アピール不足であることは確かです。前回、宇宙のまちづくりについても述べましたが、地域に資源がないわけではないのに、発信の工夫と努力が十分なされていないと思います。観光はじめ各分野で、「もったいない」と思うことがしばしばあります。まちづくりに関する議論の場も少ないように思います。市商工会青年部が30日、「わかもの議会」を初開催します。中学生から20代を対象に、人口減の中での角田のまちづくりについて話し合ってもらう取り組みです。今回傍聴席は設けないことになっていますが、活発な議論を期待しています。さまざまな場で身の回りの社会、時代について話し合われることが原点であり、ぜひ文殊の知恵を絞ってほしいものです。
約90年ぶりに修復される阿弥陀如来坐像