2011/5/1UP


伝える、悩む…そして前へ

 まるで終わりが来ないかのような激しい横揺れ、田畑や民家を押しつぶし、平穏な街をのみ込んだ巨大津波、澄み渡る空に潜み、人々に恐怖を植え付ける不気味な放射能―。東日本大震災の発生から、4月末で50日が経過した。皆さんは震災を昨日のことのように思い返しているのだろうか。それとも、2カ月弱がとてつもなく長かったと受け取るだろうか。いつ余震に襲われるか分からない状況はこれからも続く。福島第1原発はまだ沈静化していない。言い知れぬ思いが胸の中で、複雑に交錯し続けた50日間だった。正直なところ、今も気持ちは整理整頓できていない◆震災直後と比べ、変わりつつあることもある。人の数だけ存在する「3.11」。その経験を語り掛けてくれる人が、以前より格段に増えた。時系列に記憶をたどって事実を淡々と伝えてくれた人。時計の針を巻き戻すようにしながら、涙を流して体験の断片を訴える人。一人一人が未曽有の大災害を目の当たりにした歴史の証人であり、被災の当事者に他ならない。新聞社で働く者として、心の底から発せられた叫びを後世に残す使命があると信じ、必死に耳を傾けてペンを走らせた。「震災ノート」はまもなく5冊目に入る。苦い記憶を教訓としてしっかりと繋ぐことで、遠い未来の尊い命を救いたい◆いろいろと悩みもした。3月中は特にそうだった。ガソリン不足の真っただ中、「被災地の現状を伝えたい」という大義名分を掲げ、車のハンドルを握った。本当にこんなことをしていていいのか。自分以上にガソリンを必要としている人に譲るべきではないか。避難所生活の苦労話を聞いた後、自分はライフラインが復旧した支局にのうのうと帰る。結局のところ、被災者を何一つ支えられていないのではないか。答えが見つからないまま、取材を続けた。沿岸部の亘理、山元両町を回っていて「石巻市や南三陸町などは新聞、テレビで連日取り上げられるのに、県南はあまり報道されない」という批判もいただいた。取り残されたような孤独感を抱いたなら、寄り添いたいという気持ちを持っていることだけは分かってほしい◆「家や車、職を失ったけれど、命があるだけまし」と話す人もいる。とはいえ、彼らの精神的、経済的損失は決して小さくはない。今後の生活を考えると、死より重い現実を背負っているようにも映る。「全ては仮設住宅に入ってから」。そう考える人がほとんどだ。1日1日を生きるのが精いっぱいの避難所暮らしから、早く解放されることをただただ願う。復興の足音は被災した人にしか鳴らせない。ゆっくりとした歩みかもしれないが、着実に近づいていると信じている。