コロナ系法人が角田で農業に参入するという話題、仙南シンケンファクトリーで連日行われたNHK地方ニュース番組の公開生放送…。これらはすべて3月上旬の出来事だ。インターネットの質問サイトに京大入試問題が投稿され、仙台の予備校生が逮捕されたのも3月に入ってから。最近のことが遠い昔話に思えるほど、忘却のかなたに追いやられてしまった。それくらい「3.11」を境に、我々の命、生活、そして記憶までもが分断された。被災者は未曽有の大災害に現在進行形で対峙している。過去を振り返る余裕がある人はおそらくいない。未来についても同じだろう。数カ月後、1年後という長期的な視点で考えても、どのように復興が進み、暮らしているのかイメージしにくい。それでも明日への希望を持ち続けたい◆沿岸部に住む親類や友人、同僚を失った市民のことを思うと、慰めの言葉が見つからない。安否さえ確認できずにいる人も多くいる。自然の猛威が、自分たちの大切なものを一瞬にして奪い去った。その現実を受け止めろというのは、今の段階では酷すぎる。思う存分泣くほかない◆実は東日本大震災の発生から4~5日ほど、避難所生活を送っていた。ライフラインがストップしたうえ、恥ずかしながら備蓄食料もあまりなかった。亘理、山元両町などの沿岸地域を取材するため、角田を離れることもあった。余震が続く支局に妻と幼い娘を残したままでは、安心して仕事に出掛けられないと判断し、避難所に移った。毎日1回は支局に戻ったものの、留守中に訪ねていただいた方々に多大な迷惑をかけたことをおわびする。避難所暮らしをした記者は珍しいかもしれないが、食パン1枚を家族で分けるといった他地域と比べ、私の避難先のウェルパークは申し訳ないほど環境が良かったので、詳細に「体験談」を語ることはやめにしたい◆ただ一つ言うならば、今回ほど人の優しさや思いやり、コミュニティーの大切さを感じたことはなかった。初対面の人が近くで眠る異常事態を乗り越えられたのは、相手を思いやる気持ちを皆が忘れずにいたからこそだ。騒ぐ娘に嫌な顔をせず声を掛けてくれた高齢の女性、手に入れた食べ物を周囲に配っていた夫婦。「自分さえよければ」という心理が働けば、避難所の人間関係はすぐに崩壊する。それを知っているのか、隣同士で気遣いながら、集団としての連帯感は日に日に増していった。電気が復旧して避難所から去ることを決めた日、涙があふれそうになった。そう遠くない将来、復興を遂げた街の中で、同じ屋根の下で過ごした仲間に再会したい。
角田市民の皆様へ 元河北新報角田支局員 報道部 斎藤秀之
角田市民の皆様へ 3月11日に発生した東日本大震災で被害に遭われた角田市民の皆様、お見舞い申し上げます。いまだ不自由な生活を強いられている皆様が、一日も早く平穏な日常を取り戻せることを心から祈っています。 地震発生時、私は仙台市内のホテルである会合を取材中でした。建物全体がシャッフルされるような横揺れに見舞われながら、豪華なシャンデリアが右へ左へと激しく揺れる様子を懸命に写真におさめました。 「こちらは無事」。知人らに取り急ぎメールを送信し、すぐさま本社へ。この時までは、これほどまでの惨状が宮城県、東北を覆っているとは思いもよりませんでした。 被災地を飛び回り、悲しい風景の断片をカメラとノートに記録しました。乳児を背負い、幼子の手をひきながら家族を求めて、難所を渡り歩く女性に会いました。幼い我が子のなきがらにすがりつき、泣き叫ぶお母さんがいました。中学生と小学生の兄姉が口を一文字に結び、手をつないで壊滅した街をあとにする姿を目で追いました。涙がとまりませんでした。それでも、この悲劇を歴史と心に刻もうと、唇をかみしめながら取材を続けました。 激しい揺れにおののき、津波に襲われ、見えない放射能という脅威にさらされた東北。わたしたちのふるさとはこれからどうなってしまうのだろう。そんな漠とした不安を払拭してくれたのは、ほかならぬ被災地の皆さんでした。 乏しい食料を買い求める行列は、どんなに長く伸びても秩序を失うことはありませんでした。「大変だね」「大丈夫かい」。人が集えばいたわりの言葉が飛び交っています。だれもかれもが、この悪夢のような体験を共有し、互いをねぎらい、思いやる心を持っていることを痛感しました。正直で、忍耐強く、力強い生命力に満ちた東北の人々の美しい姿を、あらためて教えられた気がしました。 復興の槌音は遠く、いまだ被害の全容すらつかみきれてはいません。でも、この「痛み」を心に刻んだ私たちが、決してこのまま力尽きることはないという思いは、日々確信へと近づいています。私たち1人1人が手を結び、悲劇を乗り越えた先に、必ず新しい郷土は開けるはずだ。そんな思いが募ります。 本当の春を楽しめるようになるまで、一体幾つの不安の夜を過ごせばいいのか。どれほどの涙を流せばいいのか。私にも分かりません。しかし、復興に向けた私たちの日々の営みは、たとえ微力であったとしても、決して無力ではないと信じています。 角田にお住まいの皆さん。お世話になった皆さん。決してうつむかず、前を見つめて進みましょう。美しい田園に囲まれ、人々を癒してくれる角田の地が、本領を発揮するのはこれからです。傷つき、凍てついた郷土に未来を描くために、市民の皆さんが先頭に立ってくれることを願っています。私も遠く仙台の地から、報道を通して皆さんのお役に立ちたいと思っています。ともに頑張りましょう。
2011年3月23日
角田のみなさんへ 前河北新報角田支局記者・上田敬
「角田のみなさんへ」 角田のみなさん、「あんふぃに」を通じてお話しさせていただくのは2年ぶりですね。こんな形で再会することになるとは、夢にも思いませんでした。本社へ異動となり、「整理記者」として紙面づくりを担当してきましたが、あの日以来、付けた見出し、手元を通り過ぎた写真の数々は、現実とは思えない恐ろしいものばかりでした。角田は比較的被害が少なかった地域と見られているために、支援の手が届くのが遅れているのではないかと心配しています。不安な日々を過ごされている方も多いことと思います。「何かメッセージを」と声を掛けてもらいましたが、「頑張れ」「頑張ろう」などと言えるのは、渦の外にいるからだと初めて知りました。こうすれば良いなどと言うことはとてもできません。ですから、今、感じていることだけを書かせていただきます。つとめて明るく話そうと決めていたはずが、いつの間にか将来への不安や、やり場のない怒りに声を荒らげていることに気づきます。家族と話していても、会社の仲間が相手でも。その後で、馬鹿げたことをしているなと反省します。嘆いても恐れても現実は変わらないのに、感情を無駄づかいしていると気付くのです。それでもやはり、口を開けば暗い話に。その繰り返しです。それでも、一つだけ確かなことがあります。明日からの不安を数え上げればきりがありませんが、今ある幸せは数えられます。手の中に収まります。おにぎりをかみしめたら甘かった、暖かな日差しをたっぷりと浴びられた─。そのことだけを今は思います。それ以上のことを考えても、意味がありません。震災から何日か経ち、モノが少しずつ入ってくるようになったころ、仙台朝市の八百屋のお兄さんが言っていました。「食べ物はもう、心配すっごとねえがら」。夕暮れが近づき、冷え込みが厳しくなる中、心だけはじんじんと温かくなったことを思い出します。理屈ではありませんでした。その声の響きに安心したのです。確かなことは言えません。それでも、みなさんに言わせてください。「心配すっごとねえから」と。