2008/7/1UP


ファインプレー

 ◇…支局記者は特殊な仕事だ。上司も部下も同僚もなく、ほとんどの場合一人きりで動き、書く。「支局」というと独立したオフィスがあるような印象を持たれるかもしれないが、古びた平屋の建物にある六畳ほどの一部屋が仕事場だ。残りは家族と暮らす住居部分。ある意味、警察の駐在所に似ている。決まった勤務時間はなく、廊下からドアを開ければそこが「会社」なので、通勤時間がかからなくていい。lang=EN-US>◇…見方を変えれば、二十四時間style='mso-fareast-language:JA'>三百六十五日、仕事場に縛り付けられている状態とも言える。もちろん、時期によっては「毎日が日曜日」ということもある。幸い、この街は新聞をにぎわわすような事件が少ないので、真夜中に電話でたたき起こされて、事件現場に赴く―というようなことはほとんどない。とはいえ、早朝から深夜まで、土日の境もなく会社や取材先から電話がかかってくるし、取材に呼ばれれば腰を軽くして飛んでいかなければならない。支局暮らしはstyle='mso-fareast-language:JA'>二ヵ所目なので、もうだいぶ慣れたが、仕事と休みの区別を意識的に付けられるようになるまでは、正直しんどかった。◇…愚痴を言いたいわけではない。それでも支局は「いい」のだ。取材者は中立で第三者的な立場であるべきだし、偏った記事を書くことは許されない。記事は「外」の人間として書くが、視線は「中」の市民と同じものを持っている。いずれは転勤でいなくなる身ではあるが、日常は角田の暮らしにどっぷりと漬かっている。このまちで今、何が起きているのか、将来どこへ向かっているのか、記者として、であると同時に、一市民としても取材し、記事にできる。新聞社が支局網を広げている理由もそこにある。その街に暮らしているからこそ見えてくるものがある。日ごろの人付き合いから、市民の息遣いのようなものも常に感じていられる。 ◇…新聞記者を「社会の木鐸(ぼくたく)である」と表現するようになったのは明治時代だそうだが、巨悪を暴いたり、社会にいち早く警鐘を鳴らしたりといった役割は変わらないが、そういう仕事ばかりではない。作家の山口瞳は「ジャーナリストとは、他人のファイン・プレイを探して世の中に紹介する仕事だ」(『江分利満氏大いに怒る』)と書いた。地方の支局記者としては、この言葉に心から賛同する。他人のエラーを書くのが記者の義務ならば、ファインプレーを書くのは記者の喜びである。◇…最近の取材では、農家がリスクを背負って会社を作り農産物直売所を立ち上げた、手作りの腹話術人形で振り込め詐欺の被害防止を訴える人がいる―n>といった話を記事にした。事の大小、世の中に与える影響はそれぞれ違っていても、良い方向へ向かって努力する人の姿を伝えるのは、取材者にとって楽しいものだ。他社を出し抜き、目の覚めるような特ダネもたまにはほしいが、やはり人々の隠れたファインプレーを伝えることに一番のやりがいを見いだしている。記者はどこまでいっても主語にはなれないが、書くことを通じて、他人の行為を自分の喜びに変換できるのだ。