2007/7/1UP


記者の憂うつ

 月末が近づくと、いつも憂うつになる。本欄の締め切りが迫ってくるからだ。わずか原稿用紙3、4枚分がすらすらと書けないのかと笑われるかもしれない。 人気コラムニストともなれば日に何本も締め切りを抱え、政治経済から自然科学まで切り口の鋭い文章を量産する。 そこまで上を見ずとも、文章をなりわいとしない人が気の利いた文を毎日ブログに書きつづることも珍しくない。 となると、曲がりなりにも書くことを職業としている以上、ビールでもなめつつ「左手でちょいちょいと」ぐらいでなければいけないのだ。 けれど、それでもやっぱり、苦しいものは苦しい。 ◆…夜遅く、そろそろ書かなければと思ってようやくパソコンに向かうところまではいいが、 まずは乱雑な机が気になって整理を始める。電話の受話器のふき掃除までやり始めるころには、だんだん腹が減ってくる。 集中力を欠くのはそのせいかと思いつき、おもむろに台所へ行ってカップめんをすすりこむ。夜中に食べるので腹にもたれ、間もなく眠くなる。 眠気があっては文章もまとまらないだろうと、横になって少しのつもりで食休みを始めたら、朝までぐっすり。 ああ、あの目覚めた瞬間の自己嫌悪と言ったら ◆…なぜ、これほど苦しんでしまうのだろう。理由の第一は、思いのほか多くの人に読んでもらっているというプレッシャーだ。 河北本紙に出た記事について感想を聞く機会はあまりないけれど、「あんふぃに見たよ」と声を掛けられることは多い。 文章の出来はさておき、関心を持って目を通してくれたのだからありがたいと思う半面、気恥ずかしさもこみ上げる。 「どういう風に読まれたのだろう。あんなことを書いて、バカだと思われはしなかったろうか」と。 われながら小心さにあきれつつも、自分を良く見せようという心を捨てられず、ますます気が重くなっていく。 ◆…もう一つの理由は、このようなコラムは日ごろ新聞記者が書くニュースと全く異なるという点だ。 わずか十行ほどの火災原稿から数十回にわたる大連載まで、いかなる記事も書き手である「私」はほぼ出てこない。 客観・中立の報道を目指した結果、主観的要素を少しでも排除するために生み出された約束事があるからだ。 しかし、これを繰り返すうちにいつしか記者の思いを表現してもよい場合でさえ、「○○の専門家は『〜』と指摘する」と 体裁を整えるような習性が染みついてしまう。こうして、記者は「私」を出すことをためらうようになっていく。 ◆…それにしても、「アイのある文章」を書くのは本当に難しい。どこまで自分をさらけ出せるのか、 そこがポイントだとは承知しながら、毎度毎度、心の中で行ったり来たりを繰り返している。