2021/5/1UP


内陸部の悲哀

 正直に言います。東日本大震災から10年となった今年の3月11日は、取材をしませんでした。社の総力を挙げて節目の報道に取り組む日だったのですが。それでも大きな仕事はできたと自負しております。どういうことか、順を追って説明します。  もともと、3月11日は亘理町内で行われる震災関連行事の取材を割り当てられていました。しかし、その2日前、諸事情でキャンセルとなりました。取材予定が突然ゼロに。本社の震災取材班に「替わりに何かやることはないか」と連絡しましたが、新たな仕事は割り振られませんでした。本社や沿岸部支局の記者を中心に担当任務ががっちりと固まっており、私一人のために計画を組み直すわけにはいかなかったのでしょう。仕方ないとは言え、「こういう時、内陸部支局は何もできないな」と無力感を感じてしまいました。  3月11日当日の朝、どのように一日を過ごそうか考えていたところ、電話が鳴りました。2019年10月の台風19号で被災し、丸森町内のプレハブ仮設住宅で暮らす女性からでした。以前に取材で話を聞かせてもらった方です。しばらく入院しており、仮設住宅へ戻った日から河北新報を購読したいと思っていたとのこと。その日が3月11日で、当日の朝刊から読めないかとの問い合わせでした。「地元の情報が載っているので、楽しみに毎日読める」と、ありがたい言葉も頂戴しました。早速、丸森の販売店に連絡し、3月11日の新聞から読めるように手はずを整えました。  その女性は東日本大震災の被災者でもありました。仙台市内の海岸近くにあった自宅が流失し、同市内の別の場所での暮らしを経て、19年春に丸森へ移り住みました。その年の10月12日に台風で丸森の自宅も失いますが、3月11日にも特別な思いがあったのは想像に難くありません。希望する日から新聞を届けられたので、大きな仕事を成し遂げた気持ちになりました。  角田支局のような内陸部にいると、沿岸部より記事を大きく扱ってもらえない、掲載されるのが遅い、と不満に思うことが時々あります。意図的に区別されていることは決してなく、こちらの思い過ごしがほとんどです。しかし、東日本大震災は10年が経過しても復興に向けた課題は多く、注目度が高いと判断された記事ならば優先的に扱われるのはやむを得ない面もあります。沿岸部支局の記者が普段から震災関連の大きなニュースに触れているのも当然と理解しています。それでもやはり、どこか内陸部支局の悲哀のようなものを感じざるを得ません。3月11日はそんな思いを特に強く抱きましたが、その一方で、新聞は読者に支えられているということを改めて実感する日にもなりました。内陸部の話題をどんどん掘り起こし、多くの市民に読んでもらえれば、いつか悲哀も吹き飛ばせると思います。


今年3月11日の河北新報朝刊

丸森町内の仮設住宅(2020年10月)